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久保山光明寺沿革

明治11年(1878)、横浜市中区石川町に小さな道場が建立されました。幕末の開港以来、発展を遂げた横浜の地にお念仏の教えを伝えるための道場です。その後、10年間の活動を通じ、発展し続ける横浜の地にお念仏が広まり、様々なご縁が結ばれました。

明治21年(1888)、横浜の実業家であり、お念仏の信者であった吉田健三氏から境内地移転の提案がありました。この提案に同じく実業家の上郎幸八氏が賛同し、現在の境内地、並びに移転費用を寄進し、久保山に一つの寺院が建立されたました。吉田家・上郎家は光明寺の開基家、準開基家となっています。

明治31年(1898)、境内地や本堂が完備された光明寺でしたが、寺院建立の届け出を役所に提出していませんでした。そこで吉田茂氏や上郎幸八氏が中心となり、浄土宗大本山鎌倉光明寺の末寺で鎌倉長谷にあった「慈眼院」というお寺の名称を移転するという願いでを神奈川県に提出します。翌32年、この願いが許可され、吉上山慈眼院光明寺として正式な寺院として認められました。なお「吉上山」は吉田家・上郎家から一字づつをいただいたものです。

以来、関東大震災、第二次世界大戦と様々な困難に直面しながら、光明寺は横浜の皆様、さらに横浜から日本各地、世界へと活躍の場を広げたの皆様の支えにより発展を遂げてきました。これからも横浜でお念仏の道場として教えを発信していきます。

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